ニュース News
歴史コラム

昭和19年刊行の「福岡県神社誌」

「福岡県神社誌」上巻143p以下には縣社(示+土以下同様)宮地嶽神社 宗像郡津屋崎町大字宮司字古賀 が登載されています。

そして、その冒頭には 祭神 「多紀理昆賣命、狭依昆賣命、勝村神、多紀都昆賣命、息長足昆賣命、勝頼神」と書かれています。簡略化して言えば、戦中までは現在の祭神に加え宗像の三女神が覆い被さっていたのです。ところが、続く由緒には、

「本社縁起日宮地嶽大明神阿部相丞、勝村大明神藤高麿、勝頼大明神助麿、云々。伝説に往昔神功皇后新羅を征し給ふ時、宮地嶽の山上にて宗像三柱大神を招神鎮祭あらせられ祈請し給いて遂に新羅に勝ち還御ありしによって宗像三柱大神を奉斎し給ひ、後に神功皇后を御同座に祀ることとなれりと云ふ。又勝村大神勝頼大神は三韓征伐に随行せられて常に先頭を承はり勝閧を挙げられたり、帰還後此の地の祖神と祀らる。」

(一部の文字は現代風に改変しています)
と、あります。

以下、関心をお持ちの方は神社誌を読まれるとしても、例えば、宗像三女神を伏せるなど、敗戦後に大きな変化があったことが推測されそうです。
また、当時の宮地嶽神社神殿の写真を見ると(大正11年~昭和8年に掛けての大改修)、当時から千木が横切り(内削)されていることから、この女千木が宗像三女神に依るものであるのか、神功皇后に依るものであるのかは依然判別が付かないのです(ちなみに現在の宗像大社は外削の男千木なのですが…)。
なお、当時の祭神である「多紀理昆賣命、狭依昆賣命、勝村神、多紀都昆賣命、息長足昆賣命、勝頼神」の「狭依昆賣命」がお分かりにならない方もおありと思います。 宗像大社の三女神でも辺津宮の市杵島姫=(旧記は瀛津嶋昆賣)の別名であることが分かります。

現在、「福岡県神社誌」はアマゾンなどで20,000円程度で上中下三巻セットがたまに出てくる程度ですが、高額でもあり、入手し難い事から地元の図書館でなどで探される方が早いかと思います。ただ、ネット情報だけではなかなか本当のところが分からず、「宗像郡誌」(神社編)、「筑前国続風土記附録」「筑前国続風土記拾遺」などと併せ読む必要がありそうです。しかし、重要なのは、やはり、現地を自分の目で調べる事で、それなくしては何も見えてこない事でしょう。インター・ネットを利用される方は国立国会図書館(Natinal Diet Library)を検索すれば、「福岡県神社誌」の全巻も読むことができるようです。

下の写真は、宮地嶽神社の古写真(絵はがき)です。

このコーナーは、宮地嶽神社のいち参拝者でもあり、歴史研究家でもある、古根和彦さんが連載するコラムを紹介しております。